思い返せば修士課程の2年間は、まさに矢の如く飛ぶように過ぎ去って行きました。研究の進捗状況がかんばしくなく、憂鬱な日々が続くこともありました。また、将来の進路や人間関係で悩むこともありました。一方で、仲間と酒を酌み交わし夢中で語り明かした日々や、積み重ねた研究成果を、修士論文としてまとめ上げられたことなどは、感慨深く脳裏に焼き付いています。ややもすると、妥協の誘惑に駆られ安易な学生生活を送ってしまいがちだった私たちに対して、ときには厳しく叱責してくださり、ときには温かく激励してくださった諸先生方には、感謝の言葉もございません。たくさんのお叱りと励ましを受けたことが、どれだけ私たちを成長させてくれたかを、今更ながら強くかみしめている次第です。
私たちのモラトリアムには、本日をもって終止符が打たれました。これからの私たちの一挙手一投足には、社会的な責任が伴います。そのことを充分に心に留め、襟を正して、各々の進むべき道を歩んで行かねばなりません。
明治生まれの詩人、河井酔茗の、「ゆずりは」という詩に次のような一節があります。
子供たちよ
お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです。
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。
かがやける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるものです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受け取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど。
この詩のタイトルでもあるゆずり葉は、温暖な地域の山地に生育する常緑高木であり、新しい葉が育ったあとに古い葉が落ちることから、このように呼ばれるようになったそうです。酔茗は、世代間の文明・文化の相続という人間の絶え間のない営みを、ゆずりはの生長になぞらえました。ゆずりはの葉一枚一枚は、先の世代から受け継いだ実りを享受できる一方で、受け継いだ実りを、守り、育て、自分たちに続く世代に伝えていく、という義務を担っているといえます。例えるならば、私たちは、まさにゆずりはの若葉、一枚一枚です。若葉を厚く大きな葉に生長させ得るか、さらには、健やかに守り育てた実りを次の世代に譲り得るかは、私たち一人一人の肩に掛かっているのです。
現在の日本は、経済の長期に渡る停滞、政治の混迷に見られるように、決して望ましい状況にあるとはいえません。だからといって、私たちが悲観に沈んでいるわけではありません。京都大学大学院修士課程を修了した者の誇りと責任を胸に、日本再生に携わるチャンスの到来とばかりに、各々が気概を持ち、進むべき道を切り開いていく所存です。
最後になりましたが、いまの私たちがあるのは、周囲の皆様の暖かいご支援のお陰です。とりわけ精神的、経済的な支えちなってくれた両親には、心より感謝しています。私たちを陰に陽に支えてくださった諸先生方、事務室の皆様、声を掛け合い元気をくれた後輩の皆様、今までお世話になりました。皆様方のご健康とご多幸をお祈りし、京都大学の益々の発展を祈念いたしまして、修士修了代表挨拶とさせていただきます。
平成13年3月23日 岡田 将敏